歌は語れ、楽器は唄えというけれど?

これは2001年10月15日より書いてます
日記というより思ったことを書いてるだけです


感想をメールで 2001年11月の日記 2001年10月の日記 2002年の日記

楽しいお酒



 あり奈ちゃんのいないクリスマス・イブの話しは書きません。

昨日、吉祥寺の「赤いからす」というライブ・ハウスで”原田イサム”さんと”有川新二”さんが主催するクリスマス・ライブがありました。
原田イサムさんは、日本ジャズ界の大御所でJazzが人生のすべてだった「上海バンスキング」を地でいく超自由人、ジミー原田さんの子供さんです。
子供と言っても、私より10才以上年上のドラマーの方で、イサムさんのお子さんもドラマーなので、親子3代ドラマーの家系です。
イサムさんの弟さんにバリトン・サックス奏者で、やはり日本のジャズ界をリードしている原田忠幸さんもいらっしゃるので、音楽一家ですね。

 先日、電話があり「高谷ちゃん、忘年会みたいなもんだから、遊びにおいでよ」とお誘いを受け、吉祥寺に行きました。
仲宗根かほるさんのバック・バンドで、私も演奏したことのあるライブ・ハウスで、ステージにはグランド・ピアノとドラムがセットされています、ドラマーにとって、重い楽器を運ばなくてもいい、非常に楽な場所です。
遠いのが難点ですけどね。
今日は7,000円で飲み放題、軽い食事もつき、お客様も50人くらい来ています。
ベースとギターにピアノの小谷教男さんが入ったクインテットに、ヴォーカルの”ほんご さとこ”さんが加わりステージが始まりました。
イサムさんは相変わらず、若い! 
白髪なんですが長身で格好いいし、楽しそうに叩いているだけじゃなく、ドラムが唄うんです。
歌も唄いますが、これは愛嬌程度です・・・ゴメンなさい。
白熱した演奏が続きファンの方も大喜び、そして、ほんごさんのヴォーカルの出番です。
ぽっちゃりした感じの美人な方で、歌も上手い! 私はすっかりファンになってしまいました。
ステージが終わり、ほんごさんを紹介してもらい、2月22日のライブに出演して頂く事に決定です。
楽しいステージが終わって打ち上げに参加。

今日も楽しいお酒を飲ませて頂きました、イサムさんありがとうございました!

2001/12/24

お宮詣り

あり奈と私

 寝たのが朝6時半ですが9時半起床、今日は、あり奈ちゃんのお宮参りです。
朝ご飯を食べ、お風呂に入り、11時に山王日枝神社へ向け車で行きました。

 ちょっと待ちましたが、すぐ始まるようです、私達の前に終わった赤ちゃんが出てきました。
可愛い! でも、見比べちゃうんですね。
あり奈ちゃんと、どっちが可愛いかな?なんて・・・
馬鹿ですね!
どんな子でも、自分の子供が一番なんだからと思いますが・・・

 厳かな?太鼓の音に始まった儀式。
巫女さんと宮司さんとアルバイト?みたいなお兄さんの3人です。
厳かなはずの太鼓は素人らしくバラバラ、祝詞をあげた宮司さんも横笛を吹くんですが、音が不自然にひっくり返ったり・・・
巫女さんもアルバイトなんでしょうね・・・
対応は厳かに行われますが、お金取るんだったらもっと勉強しろ!と言いたい位の感じでした。
日枝神社さん、しっかり管理してね!

 終わってニュー・オータニで写真撮影です。
私が撮ってあげると言いましたが、昔から記念写真を撮っているので、やはりニュー・オータニで撮りたいという我が娘。
写真室に行きましたが、あり奈ちゃんが寝ていて目を覚まさず、ご飯を食べてからもう一度という事になりました。
近くに結婚披露宴前に撮影するカップルが2組います。
12月23日に結婚? この忙しい時期に結婚するなんて、以前には考えられなかったと思いましたが、綺麗な花嫁さんだけが目につきました。
その顔が、あり奈ちゃんにダブって・・・

あり奈ちゃんも?年後には・・・結婚するのかな?

2001/12/23

採用されますように

 18日、Macでシンセサイザーによるリズム・トラックと簡単なバックを入れましたが、今日は13時から荒川達彦さんのギターとキーボード、ヴォーカルのレコーディングです。
荒川さんは、テナー・サックスなんですが、作曲やアレンジにも素晴らしい才能を持っていらっしゃる神戸出身の方で、大都会Part?の音楽や、初期のウォークマンのサンプル音楽を作曲され、私とは、六本木の同じビルの4Fと13Fかな?の別々の場所で演奏していて知り合いました。
共にブラスが入るバンドでしたが、荒川さんのバンドの編成はトランペット、トロンボーン、アルト・サックス、テナー・サックスにパーカッション、ドラム、ベース、ギター、キーボードの9人編成だったかな?とても素晴らしいサウンドでした。
荒川さんのメンバーが私のバンドに入ったり、私が荒川さんのバンドに入り、一緒に演奏した事もあります。

 ある有名歌手の歌のプリ・レコーディングで、採用されればお金がかなり入りますが、採用されないと・・・淋しいもんです。
キー・ボードは柴田敬一さんでギターは岡田準さんです。
柴田さんとは一緒にレコーディングしたり、荒川さんのバンドで演奏させてもらったりして知っていましたが
岡田さんとは初めてお会いしました。
とてもシャイそうな方なんですが、荒川さんが「上手い人だよ」と言ってた通り、プレイしたら素晴らしい演奏をします、勿論、柴田さんもです。
ちょっと聴いてから、私は別の仕事があったので、早々にスタジオを出ました。

 帰って来たのは9時過ぎ、「歌は終わったの?」とスタジオの竹野君に聞いたら、「後、1曲で終わります」とのことでした。
レコーディングが終わってもミックス・ダウンが残っています、歌のレコーディングが済み、ミックス・ダウンの始まったのが10時半位、疲れもピークに達していますが、皆さん頑張ってのミックス・ダウンです。
最終のミックス・ダウンのOKが出たのは朝の4時半、素晴らしい曲が完成しました!
これで採用されれば、万々歳です。

荒川さん、スタッフの皆さん、お疲れ様でした!

2001/12/22

楽しみな日

 今日は、私の楽しみなライブの日、いつも通り楽器のセッティングをし、皆さんを待ちます。

 初雪も降り、車が混んでたみたいですが、遅れながらもサウンド・チェックが始まりました。
ヴォーカルのJAY(ジェイ)をメインに、日本ジャズ界の重鎮、クラリネット、フルート、アルト・サックスの清水万紀夫さん、今日はピアノですがハモンド・オルガンの大御所、酒井潮さん、ギターの平岡雄一郎さん、ベースが小泉清人さんと私がドラムの6人のメンバーです。

 JAYとは、松田聖子の”青い珊瑚礁”や杏里の”キャッツ・アイ等を作曲した、小田裕一郎さんの紹介で知り合いました。
フィリピン出身で、元VOJA(亀淵友香&ヴォイス・オブ・ジャパン)というゴスペル・グループにいましたが、石井竜也、平井堅、レオン・ライ 他のアルバムに参加したり、2001 小野リサ(クリスマス・アルバム)に参加したりと、スタジオ・ワークやステージで活躍しているヴォーカリスト、4オクターブ出る声を自在に操り、ソールフルに唄い上げますが、本当に上手いんです!
小田さんとは、家が近かったこともあり、スタジオを使ってもらったのが縁で知り合いましたが、年も近く、シュガーの笠松美樹ちゃん等と一緒にバンドを組んだり、熊本にウェスタン乗馬しに行ったり、夜のクラブ活動をしたりした仲間です。
一昨年からN.Yに住み、全世界に自分の曲を発信するんだと頑張っていますが、ギターの平岡さんも小田さんの紹介です。
今年の春まで、カリフォルニアで演奏したり勉強してた、若手の格好良いギタリストで上手いんです!
小田さんが夏に帰って来た時、皆で食事し、お酒を飲んでた席で久し振りに会い、JAYと平岡さんに「一緒にライブやろう」と言ったのが実現しました。
ベースの小泉さんは、東大卒の元エリート・サラリーマン、ギターが弾きたいと言う夢を叶える為、40過ぎてから会社を辞め、プロになったギターリストですが、ベースで仕事することが多いんです。
彼は、私のスタジオに機材を入れたりしてた、久我さんという担当者から「アマチュアなんだけど、会社に上手いギタリストがいる」と紹介された久我さんの同僚でした。
友人のリチャード・ブーカスというアメリカ人のギターリストと一緒に遊んで貰ったりしましたが、私とはJAY、平岡さんと共に初競演です。

 不思議なもので、譜面(コードとメロディだけ書いてます)を渡された時点で、各楽器の役割分担が決まります。
リハーサルは順調に進み、さあ本番。
雪が降ったのでお客さんの入りが心配されましたが、沢山来てくれました、そして、JAYのヴォーカルにうっとりと聴き惚れています。
ライブが終わって飲むお酒は格別です、今日は”ビジー・フォー・スペシャル”の紅一点こと、美子ちゃんが来てくれました。

皆で飲んでいたんですが、電車の時間などで三々五々帰ってしまい、最後は二人だけ・・・

2001/12/21

美味しい物


 伸三さんから電話があり「ホタテ送って来たから持ってくよ」とのこと、ホタテは私の大好物です、刺身もいいし、ヒモやキモは生姜醤油で煮付けると美味しい! 20〜21時の間に持って来てくれるそうです。

 今日は19時から”彩花”ちゃんという高校3年生の新人歌手のレコーディングがあり、作曲家の金田さんと作詞家のかずさんが来ています。
彩花ちゃんがちょっと遅れてスタジオに入って来ました。
毛皮のコートにジーパン姿、コートを脱ぐと真っ赤なジャンパーを着ていて、それも脱ぎます、身長165センチ位で”ボイン”見た目はセクシー系です。
胸元が開いていて見えるんです・・・大きい人程見せたがるのかな?
話すと高校生なんですが、姿は立派な大人の女性ですね!

 新曲を3曲レコーディングするんですが、風邪をひいてたので調子が悪いのか、ノリと音程がいまいちの彩花ちゃんも頑張ってます。
でも、レコーディングしてるのに、私の心はホタテで一杯。
「どうですかね?」と金田さんに聞かれても「いいんじゃない」と上の空。
8児40分頃、途中抜け出して玄関に行くと、伸三さんとバッタリ!
「仕事に行くから」とすぐ帰りましたが、ホタテを持って来てくれました。
待ちに待ったホタテです、早く食べたい!

 スタジオに戻ったら、最後の曲のレコーディング中。
今日はプリ・レコーディングなので、そんなに完成度は求めないんです。
そこそこに出来上がり、ミックス・ダウン。
その間も心はホタテ・・・
10時前に全て終了、金田さん達は車で来たので帰りました。

 私はホタテを持って、急いでいきつけのお店へ。
美味しい物は皆で食べなきゃと、お店の人と私の刺身と煮つけを作って貰い、ビールを飲みながら食べたら、美味しい! 刺身は甘く、ヒモやキモは程よく煮えています。

今日も幸せな一日でした。

2001/12/20

歌は語れ

 私の会社は音楽制作を主にやっていますが、レコーディング・スタジオも経営しています。
その一環で、個人レベルで楽しむCD制作をしています。
歌われる方のキーに合わせたカラオケを作り、レコーディングして、ジャケットを作り、CD-Rに入れますと、市販のCDみたいな作品ができるんです。

 歌う方は、のど自慢の人が多いんですが、レコーディングになると緊張しちゃうのか、「あっ、間違えた」とか、変に上手く歌おうとして、音程が定まらない人が大半です。
一様に、身体がガチガチになって、リラックスしてないんですね、そんな時は深呼吸してもらい、身体をほぐすことから始めます。
お酒でも飲んで、リラックスして歌えばいいんでしょうが、飲み過ぎてヨレヨレになっちゃう人もいますから程々にします。
とにかく、ヨイショしてリラックスさせると、俄然歌い方が変わり、「上手いね!」なんて言おうものなら、段々その気になって来ます。
俗に言う”豚もおだてりゃ木に登る”状態ですね。
そうなれば、レコーディングも完了です。

 カラオケでよく皆さんが言うのは「下手だから、ちょっと・・・」と尻込みしてしまうんですが、本心は歌いたい方が多いと思います。
確かに、上手い方もいますが、お金を払って歌うのは一緒、下手だから・・・と思わず、自分自身が楽しんで歌えばいいんです。

下手だから恥ずかしいと考えないで下さい。
上手く歌ってやろうとも考えないで下さい。
詩を良く見て情景を思い浮かべ、語るように歌って下さい、その詩の主人公になり切る事です。
力を抜き語るように唄う、それだけで歌は変わります。
是非、お試し下さい。

心の壁を取り去ったら、見違えるような歌になると思いますよ!

ちなみに、私は下手ですが”マイク・ハナサナーズ”のメンバーです。

2001/12/19

カット&パーマ

 今日は髪を切って来ました。
伸びてたのは知ってたんですが、なかなか行けず、朝電話して「今日、空いてますか?」と聞いたら「3時半だったらいいですよ」との返事で行って来たんです。

 場所は目黒区青葉台の閑静な住宅街の中にあり、普通の家の1階がお店で「ソロ」といいます。
高村義彦さんという方がやってますが、一人でやってるからソロなのかな?
広告代理店に勤めてる伊東さんから紹介して頂き、もう3年位来ています。
車庫に車を入れてすぐ入口がありますが、小さいながら綺麗な庭もあります。
お店の中は、高村さんが骨董に興味があり、収集した昔の食器棚みたいな物を、物入れに使ったり、掛けてる絵も日本画のいい感じのものです。
店内には洒落たジャズが流れ、途中でお茶やお菓子も出てくるんですが、毎回違う物。
これが嬉しいんですね!
なんか飲みたいな・・・と思う頃にケーキか和菓子が、飲み物に合わせて(逆かな?)出てくきます。
それと、マン・ツー・マンなのも良いですね。

 他のお客さんがいないので、カットで30分位、パーマをかけても1時間位で終わります。
家から往復で1時間位かかるのが難点と言えば難点ですが、最初に「似合うと思った髪型にして」と言ったくらいで、後はお任せでず〜っとやって頂いてます。
お互いに、気を使わないのもいいですね。

今日も、気持良くカット&パーマでした。

2001/12/18

美女二人と

 今日は同級生の浪内君とデートです、18時半新橋の”一鶏”で待ち合わせ、一鶏は焼鳥屋さんで高橋一郎さんという店主と奥様の2人で経営している、私が大好きなお店です。

 ここは”百年の孤独”という美味しい焼酎が置いてあり、焼鳥はせせり(首の肉)やぼんぼち(お尻の肉)、ちぎも(レバー)、皮、つくね、ねぎまが大好物です。
ここの皮は天下一品、美味しいんですがなかなか、出してくれないんです。
おまかせもありますが、メインはコース料理になってます、10本と7本のコースで、7本コースには皮が出てこないんです。
10本コースには出てくるんですが、飲みながら食べる私には多いので頼むのはいつも7本コース、皮の入荷が多い時には出してくれますが、いつも一杯のお店は10本コースで皮が無くなってしまいます。
その時は、一緒に行った人に頼んで皮だけ分けてもらいますが、美味しいんですよ!

 ちょっと遅れて行きましたが、大野さんという上司と20代の若い女性2人が来ていました。
大野さんは4才年上ですが同い年位に見え、2人の女性は若くて可愛い!
なんで浪内が勤めてる会社にいるの?って感じの女性です。
二人共独身、私がもう少し若かったらプロポーズしちゃいたい位、可愛い!
焼鳥は勿論、美女と一緒でお酒も美味しく、楽しい時間が過ごせました。
大野さんゴメンなさい・・・

ボーナスを貰ったそうで、今日は浪内君の奢り。

また、よろしく!

2001/12/17

可愛い!

気持良さそうに寝ています。

 昨日の美味しいお酒が、ちょっと残ってるような気持の良い感じで9時半に目が覚め、トースト2枚と目玉焼き、牛乳、コーヒーで朝食です。
今日は可愛い、可愛い”あり奈ちゃん”に会いに経堂まで行くんです。
お昼を一緒に食べようということだったので、簡単な朝食を食べ、支度をして行きました。

 先週、娘夫婦が箱根に行ってたので会えなかったんですが、2週間振りに会ったあり奈ちゃんは、オッパイをいっぱい飲むようになり、1キロ体重も増え元気そうです。
キャスター付の、泣いたら端をつかんで良い感じで揺らすことができる新しいベットに寝ていましたが、食べちゃいたい位、可愛い!
もう目が見えるのかな?
私の顔を見て笑った!
と、思ったら泣いてしまう・・・
娘が、「おしっこじゃない?」と言い、オムツを見たら下の色がかわっていて、おしっこしています。
娘が馴れた手つきでオムツを代えますが、ブランド好きな馬鹿娘と思っていたのに、母になっています。
旦那も、毎晩お風呂に入れるのを楽しんでいるみたい。
私も入れてあげたいな・・・
私が「ミルクをあげたい」と言ったら、最近はオッパイだけで間に合ってるみたいで・・・残念!

 お昼一緒に食べたのはベタベタの焼そば。
なんか、頼り無い焼そばを焼く音が聞こえてたと思っていましたが、ガスじゃなく電気コンロだったんです。
火力が弱すぎて、炒めるのに時間がかかってしまい、ベタベタになってしまうようなんです。
最近のマンションは多いみたいですが、これで皆さん料理してるのかな?
それとも、娘夫婦の使い方が悪いのかな?と疑問に思いました。

 夜、友達が遊びに来ると言うので、あり奈ちゃんに別れを告げ帰宅。

すぐ会いに行くからね!

2001/12/16

美味しいお酒

 今日は渋谷の「ハニー」というライブハウスで、TBSサービスの鈴木さんがリーダーのバンドが主催する、クリスマス・ライブがありました。

 18時開場、18時30分開演、4,000円会費(安い!)でビュッフェ・スタイルの軽い食事と飲み放題のお酒でしたが、18時20分に着いた頃には、残念ながらもう食べ物は無くなっていました。
久し振りに会った鈴木さんの息子、隼君も受付を手伝っています、最近エレキ・ベースを始めたそうなんですが、大学受験なのに大丈夫なのかな?
お客様は100人位来ていてビッシリです、その中に美女の集団が・・・
聞いたら◯BSのアナウンス室の方々で、元アナウンス室長の弟子丸さんの部下でした。
目ざとく見つけた私に、弟子丸さんが「高谷さんには紹介しないよ」だって・・・
「こちらの席でご一緒しましょう!」と彼女達は言ってるのに・・・
10年振り位かな?アルト・サックスの小泉さんの奥様になった真知子ちゃんが、5年生になったお子さんを連れて来ています。
旦那は、よく事務所に来て一緒に飲むんですが、TBSサービスのアイドルだった万智子ちゃんは、ふっくらした位でまだまだ可愛い!
去年結婚したばかりのバリトン・サックスの星さんの奥様とお子さんにも、初めてお会いしましたが、しっかりした感じの方で、星にはもったいないような奥様です。

 ところで、今日は18人編成のフル・バンド+ヴォーカルです。
通常のフル・バンドはTrumpet4,Trombone4,Saxphone5,Drum,Piano,Bassの16人なんですが、フルートのめぐみちゃんとギターの神谷雄司さんがいるので18人なのです。
メンバーの大半は知合いで、一緒に遊んだり(演奏)、お酒を飲んだりする仲間です。
第二段の食べ物を待ちながら、ビールと水割りを飲んでると、弟子丸さんのドラム・ソロからST.LUIS BLUES MARCHが始まりました。
最初は緊張してたのか、ちょっとちぐはぐな感じが、曲が進むにつれ段々良くなって来ます。
曲の紹介もメンバーが交代でします、面白い人、普通の人・・・
でも、そんなに上手くはないんですが、20〜5?才のメンバー全員楽しんでます!
20才の短大生でトロンボーンの畔上明子ちゃん(初めて会いました)はもうノリノリ、ピアノの江川葉子さんもニコニコしながら楽しそうに演奏しています。
ヴォーカルの鈴木恵子ちゃんも、久し振りに聴きましたが、唄い方に練習の成果が!
ドラムの弟子丸さんもノリノリ、フルートのめぐみちゃんも!
客とステージが一体となるような楽しい演奏です。

 2ステージでしたが楽しいライブが終わりました。
「僕のソロの時、高谷さん寝てたでしょ!」とアルト・サックスの村岡さん、「いや〜、心地いいサウンドだったから」とごまかす私。

その後は、近くの居酒屋で打ち上げです。
20人位で行きましたが、ワイワイ言いながら、皆さん美味しそうに飲んで食べていました。
楽しい演奏の後は、お酒が美味しいんですね!

皆さん、お疲れ様でした!

2001/12/15

初めての外国2

パラオの港で歓迎のダンスです。

 最初の目的地、パラオに着いたら港で住民が踊りの歓迎をしてくれました。
日本人では、私達が初めて訪れた団体の観光客だったような記憶があります。

 戦前・戦中は日本の統治下にあり、日本語を話せる人も多く島内を案内してもらいましたが、日本人学校跡や日本のポスト、戦時中使用してた機関銃や戦車の残骸もありました。
住民がやたらペッペッと赤いつばを吐くので何かと思ったら、石灰と忘れましたが木の実を一緒にガムみたいに噛んでいるんです、ハブラシの代りかな?いまだに謎です。
感激したのは、海が凄く綺麗で透明度も高く、シュノーケリングしたら、熱帯魚みたいな魚がうじゃうじゃ泳いでいるんですが、逃げないんです。
後に、ダイビィングをやるようになったのはこの経験からでしたが、日本ではあんな綺麗な海で潜ったことはありません。

 面白かったのは、暑い国でアバウトなのか、お土産品に値段を書いたシールを張ってあるんですが、前の値段の上にまたシールが張ってあり、それが剥がれると前の安い値段が出てくるんです。
久し振りに儲けられる馬鹿なお客さん達が来るというので、また張ったんでしょうけど、私は最終の安い値段まで剥がして、半額位の値段でお土産を買ったり、当時、アメリカ軍がパラオに駐留してたので、コカ・コーラ社から発売されてたドクター・ペッパーという飲み物も初めて飲み、薬臭かったような気がしますが気に入り、お土産に持ち帰りました。

 パラオに滞在したのは何日か忘れましたが、次の目的地グァムへ向かい着きました、グァムの思い出は海になまこが一杯いたのと、スコールが車を追うように降って来た位かな?
あっ、彼女の友達”とんこちゃん”にもグァムで会い、一緒に遊びました。
私は、彼女と一緒の海外旅行で楽しく、他のメンバーやボーヤ達も楽しい思い出を作りながら横浜へ。

 横浜に着く頃、皆は別れを惜しみ、再会を約束しながら泣いてる子もいます、友達以上の関係になった人達も・・・
桟橋には親兄弟や彼氏の姿が見えますが、一部を除いてそちらには目を向けません・・・

娘ができても、船に乗る一人旅だけは絶対させないと思った私でした。

パラオにてメンバーと、右端が私です。

2001/12/14

初めての外国

 「荻野達也とバニーズ」から「荻野達也とフーリンカザン」に変わった頃、車を買った時対応してくれた営業の女の子が、「営業で暇だから」と毎日家に遊びに来るんです。
そのうち、卒業して働いたばかりなのに「ご飯作ってあげる」とか言って会社の営業時間に買物袋を下げて来るようになりました。
”どてかぼちゃ”とあだ名をつけましたが、知らない間に私の中に入って来た、3人目の結婚を考えた女性で、初めて外国に行った時も一緒でした。

 25才の頃、横浜〜パラオ〜グァム〜横浜と”洋上大学”と言って当時流行っていたツアーで、参加者に名目だけですが昼は音楽を教え、夜はラウンジで演奏するという仕事で行きました。
名前ははっきりしませんが、噺家の柳家小三治さん、話し方教室の江上?さん、麻雀の小島?さん、ダイビングの?さん、ゴルフの?さん、音楽は私達と、趣味の分野の講師陣ですね。
参加者は女子大生が多く、横浜からオリエンタル・プレジデント号という4万トンの船で出航する時、親や彼氏が見送りに来ています、女の子は、初めての海外旅行に期待に胸ふくらませ、送りに来た男の子は淋さと共に、心配そうな顔を見せていました。

 驚いたのは、船に乗った途端、外国なんです、船長や他のクルーはイギリス人が主で、ボーイさん等は香港、台湾の人々、会話は英語しか通じません。
荷物を部屋に運んで貰って「サンキュー」と言っても帰りません、何かと思って不審そうにしたら「チップ」と手を出します、本では読んで知っていましたが初めての経験でした。
私は彼女と一緒の部屋でバス・トイレ付、リヴィングがありベット・ルームの2部屋です、他のメンバーはツインに2人かな?
船というのは面白く、船室によって待遇が全然違うんです、最低料金の部屋は船倉に近い部分にあり、2段ベットでシャワーやトイレも共同。
ディナーも私達は船長と一緒でしたが、出る料理も違い、その方達ははずれの方で食べていました。

 10時と15時にはティー・タイムがあり、銅鑼が鳴るとコーヒーや紅茶と共にケーキが出ます、ぷ〜んといい香りが漂い、誘われるように行きました。
夜は夜で、洋上は雰囲気も違い星も綺麗に光り、開放された気分で一杯の女の子達は、若い私達に目を向けてきます、演奏が終わった後はその子達と毎晩宴会・・・
私は彼女と一緒なのでそんなことはできませんが、”乱れてた”みたいです。
お酒も免税価格で安く、仲良くなった香港出身のボーイさんに頼んだらジョニ黒が2ドルでジョニ赤が1ドル、凄く高いと思っ

ていたブランディーも40ドル位だったかな?

楽しい毎日でした。

船上にて、栗山正、私、荻野達也、明田川勝美、黒沢博、黒沢良昭、村田三郎の7人となりました。

2001/12/13

デヴィ夫人のパワー

 昨日から徹夜で、今日のディナー・ショーでデヴィ夫人が歌う曲のアレンジをやって、朝ようやく終わりました。
しかし、アレンジしたスコアをモザイクという譜面を書くソフトで、パート譜を作る為必死に入力するんですが、思ったより時間がかかってしまい、朝10時に古屋さんが取りに来ましたができていません。
リハーサルは12時、「じゃあ、会場で写譜しよう」と思ったら「◯◯◯これキーが違うよ」と古屋さん。
「え〜っ!、Cmじゃなかった?」、「このあいだFmって言ったじゃない!」資料で貰ったカセットをよく見たらFmと書いてありました・・・
 私は、字もそうですが譜面を書くのも下手で苦手で、まして移調すると間違う可能性があります。
こうなったら写譜屋に頼もうと、急いで車で赤坂にあるハッスル・コピーに行き、お願いしました。
「これ移調して写譜して下さい」、「いいですよ、何時にお使いですか?」、「12時に始まるけど、できる?」、「大丈夫ですよ、できたらFaxで送りますから」と快い返事。
11時に持って行って12時にできちゃうなんて、お金は払うんだけど、やっぱりプロは違います!
 11時半に会場に着いたら音響、照明等、皆さんがセッティングしていますが、その中にデヴィ夫人の姿が見えます。
去年、初めてお会いしましたが、夫人は優雅にスタッフの皆さんに何でもやって貰ってると思っていました。
しかし、違いました、テーブルの位置や飾りつけ等を率先して色んなことをやっています。
やはり今年もそうです、リハーサルが始まるまで休みなく働いています、信じられますか?60を越えた元大統領夫人が・・・。
 無事、譜面も着きリハーサルが始まりました。
今日のゲストは田辺靖雄さん&九重佑三子さん、松島アキラさん、カルーセル麻紀さん。
最初はデヴィ夫人のリハーサルです、やっぱり休みなく何度も歌を唄ったり、踊ったりを繰り返します。
素人の領域を超えないんですがパワーは凄い! 12時半に始まり6時半の会場まで延々と続きます。
歌を2曲と日本舞踊、フラメンコを踊ります、疲れて本番大丈夫なんだろうか?と思う位の勢いです。
去年は打ち上げ後、夫人とスタッフとで六本木のサンバ・クラブに行きました、そこでも夜中の2時半位まで皆と踊っぱなしです。
今日は、リハーサルと仕出しの弁当を2個食べて、リハーサルの途中寝てしまった私ですが、ショーが始まる前に出番がないので帰り、早々と寝てしまいました。
でも、デヴィ夫人は打ち上げで、あのパワーをまた発揮するのかな?

2001/12/12

コーラス

 レコード会社が変わり、テイチクからレコードの新譜をを出す時に「荻野達也とフーリンカザン」というバンド名になりました。

 この頃は、私がコーラスの譜面を書いて、メンバーと毎日の発声練習やアーティキレーション、堪能じゃない英語の発音等、皆で合わせる練習をして効果をあげていました。
ブラス・セクション3人とヴォーカル二人、リズム・セクション4人の9人編成にコーラスが入ると、サウンドの厚みが増します。
リズムに歌がのり、コーラスがハーモニーで包む、そしてブラスが、これでもか!と追い上げる・・・
リズム、メロディ、ハーモニーが一体になった時、それは最高の気分です!

 ハーモニーは勿論、音程や歌い方が合ってくると単一のメロディだけでも、1人で唄うより2人、2人より3人と、人数が増えるだけコーラス効果(声質の違いや、ちょっとした音程の違いが、音の厚みを作ります)が高まります。
そういうのを組み合わせて、ハーモニーをオープンにしたり、クローズにしたりと、アレンジを変えることでも曲が変わってしまうのが面白いんです。

 ところで、今までの例からいうと、ブラスの人達は「歌は唄えないよ」と言う人が多く、リズム隊は歌いたいという人が多かったような記憶があります。
楽器を手にする時の動機が違うのかな? 
歌が唄いたいから、ギターやピアノを演奏したいと考える人、純粋に楽器だけ演奏したい人・・・

でも、歌うと楽しいよ!

ちなみに、私がよく聴くコーラス・グループは、マンハッタン・トランスファー、シンガーズ・アンリミテッド、テーク6、ニューヨーク・ボイセス、ザ・リッツ等です。

2001/12/11

酒とバラの日々

 禿丸の弟は健さんというギタリスト、お父さんが亡くなり、現在”アロハ・ハワイアンズ”を引き継いでいますが、当時から禿丸よりもっと薄く女好きだったので、”たけしは禿げ、激しい女性関係”をもじって「はげし」と命名。
その彼から紹介され、麻布の”ニド”というサパー・クラブで仕事を再開です。
バンマスの森克夫さん(ベース)、島健さん(ピアノ)、私のトリオに歌の女の子です。
島ちゃんは、島田歌穗さんの旦那様で有名ですが、当時からピアノが上手く、一緒にプレイして刺激になり、楽しく勉強になるプレイヤーで、仕事が終わると島ちゃんの家で、よく一緒に飲みました。

 このバンドも楽しくプレイすることができましたがある日、グループ・サウンズの「バニーズ」でドラムのオーディションがあると聞き、横浜の根岸にあった事務所に行きました。
ユーミンが唄ってた”ドルフィン”の裏手です。

 「寺内タケシとバニーズ」から「荻野達也とバニーズ」に変わった頃で、アイドル的要素の高かったグループ・サウンズから、当時流行っていたシカゴやブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ等のブラス・ロックに転向する為ブラスを入れ、ドラマーを入れ替えるということでした。
二階建ての建物の1階が喫茶店と事務所だったかな?、2階がバンド・ボーイの宿舎と練習場で、そこでオーディションを受けました。
私はスティックを忘れたのでドラマーの井上さんから借り、何曲か一緒に演奏し、その後面接です。
後日電話があり、受かったという知らせがありました。

 バンマスの荻野達也さん(キー・ボード)、井上正さん(ヴォーカル・ドラム)、栗山正さん(ギター)、黒沢博さん(ヴォーカル)、サリー佐藤さん(ベース)、永井真さん(トランペット)、佐々木誠さん(トロンボーン)、村田三郎さん(アルト・サックス、フルート)に私(ドラム、たまにトランペット)の9人編成のバンドです。
村ちゃんはジャズ・コンボ出身、二人のブラスはフルバンドからで、私はジャズ&ポップスかな?、サリーは分からず、あとはグループ・サウンズ出身です。
グループ・サウンズ出身者は格好良かった! 着てる洋服も違うしスターみたいな顔してました。

 このバンドで苦労したのはヴォリュームでした、とにかくデカイ!
慣れるまで苦労しましたが、若いので吸収も早く、バスドラムの足の使い方や、スナップを使ってヴォリュームを出す方法も練習で解決することができました。
ステージ衣装も今までのバンドとは違い、女の子が着るブラウスみたいなシャツや派手なズボン、衣装が足りないのでギターの栗さんに借りたり、1ステージ演奏するだけでパンツまで汗でビッショリになるので、ステージ毎に替えました。
ステージ衣装は神戸や大阪で買いました、ステージ向きの派手なシャツやズボンを売ってるお店が一杯あり、給料も18万かな?普通のバンドマンの3倍位だったので、すぐ買えました。

 とにかく、世界がガラっと変わってしまいました。
移動は主にバンドの大型バスですが、新幹線だとグリーン、ホテルは1人1室、ご飯代として出るのが一食3,000円位貰ったのかな? ファンも綺麗で可愛く格好いいおねえさんが多いし・・・
社長にマネージャー、バンド・ボーイが5人位いて、楽器の運搬やセットは全部やってくれます。
楽器はパールのモニターでただ! ヘッドやスタンドは貰い放題、シンバルはパイステが半額。
日本全国をあちこちコンサート・ツアーをしたり、都内のジャズ喫茶での演奏やテレビ出演。
演奏が終わるとサイン会があり、サインの書く回数も今までと違います。
やはり、仕事が終わると打ち上げがあり、地元の美味しい食べ物とお酒、そして○性までも・・・

酒とバラの日々が続きます。

 

トランペットはレイ藤原さんに、ヴォーカルは山本富士男さん、ベースが黒沢良昭さんに変わりました。
左から2番目が私です。

2001/12/10

明暗

 1970年、横浜の吉野町近辺の16号沿いにあったマンションの1室に引っ越しました。
というか、酔っ払った勢いで転がり込んだんです。
一緒に住ませて貰った女性は、私の車がホンダS600というスポーツ・カーでしたが、傷ついて貧相なので、すぐ新しいカローラSRに買い変えてしまうような人で、「男の財布には、いつも3万円位入ってなきゃ」と私の財布の中を毎日3万円にしていました、職業は芸者さんです。
当時の初任給位じゃないかな? 私の給料は6〜7万位だったと思います。

 その頃、ロミーから「イーさんがバンド作るから一緒にやらない?」と誘われ、イーさんこと冬梅邦光さんがバンマスの「ウメ&ボディーズ」に参加しました。
冬梅邦光さん(T.Sax)、島村代一さん(Bass)、六角幸雄さん(Vocal)、?さん(Guitar)、ロミー木下(Bass,Vocal,Percussion)と私(Drums)の6人編成のバンドでした。
冬梅さんと島村さんは、当時有名だったミッキー・カーチスさんのバンド”サムライズ”にいて世界中を演奏旅行して歩いていた方々です。
仕事場は、その当時はやっていた赤坂ホワイト・ハウスや六本木クレージー・ホース、赤坂のヒルトン・ホテル等、ちょっとお洒落な遊び人が来るようなクラブで、格好いい男性や綺麗で優雅な女性、可愛いホステスさんが毎晩遊びに来ます。
演奏する曲は、スタンダード・ジャズや当時はやっていたポピュラー、ダンス(ディスコ)ミュージック。

 ところが、そんな所で仕事してると、浮気してるんじゃないかと勘ぐられ毎夜口論で、ガスを出されて着物の紐で首を絞められ、目の周りが真っ黒になったこともあります。
何にもしてなかったのに・・・
終いには包丁を持って「殺してやる!」と切りつけられ、シャツを真っ赤に染めた姿で、荷物を全部置いて逃げ出しました。

 その頃は、赤坂のヒルトン・ホテルで仕事していて、傷の手当てを優しくして貰ったのが、二度目の結婚しようとした女性です。
友達からベアーちゃんと呼ばれ、薬科大学を卒業し、ホテルのドラッグ・ストアーに勤めたばかりの女の子でしたが、一目惚れしてしまいました。
お互いに惹かれ、話しも合い、自分の意志で同棲した、初めてで最後の女性です。
小田原に夜ドライブ行き、海を見たら急に泳ぎたくなり、二人で素っ裸になって泳いだら、夜光虫が腕をストロークをする度に、神秘的な光りを放つのに驚き、感激した思い出や、箱根で霧の中を「夢の中の世界みたい」と言いながら車を降り歩いたことなど・・・
毎日が楽しい二人での生活、仕事のほうも楽しく順調でした。

 ところが、注意してたつもりが妊娠・・・
私は結婚するつもりでいたので「産もうよ」と言ったら、「言い出せないでいたけど、実は婚約していて4月に結婚式が決まってるの、でも別れたくない」とのことでした。
目の前が真っ暗になった私・・・
そういえば、親兄弟の誰にも紹介されず、親がうるさいから様子を見てから、と言っていました。
結局、親の仕事の関係で結婚式だけはあげなくてはいけないと、病院に行き処置して少したった頃、私が居ない間に、彼女の父親が連れて帰ってしまいました。
どうしてか、今では定かではないんですが、彼女が田舎に帰る電車の時間を知り、上野に向かい探します。
彼女がお父さんと一緒にプラット・ホームに居ました。
お父さんに挨拶しましたが「結婚が決まっているのに、こんなことになって」と言うばかりです。
「電話するから」と言うものの別れは辛く、彼女と泣きながらの別れ。

 仕事も手につかず悲嘆にくれてたある日、電話がかかってきました。
「結婚は破談になりました、でも・・・あなたとも駄目だって親は言うの」と聞き、すぐ彼女の田舎に向かいました。
ご両親や兄弟の方にもお会いし、いろいろ話しましたが「結婚は破談になったが、あなたとも結婚させるつもりはない、まして、バンドマンなんて職業の人に可愛い娘をやるわけにはいかない」と言われました。
それでも諦めきれず、彼女の友達に連絡を頼み、私達は内緒で何回か会いました。
私は一日1,000円と使うお金を決め、切りつめた生活で残ったお金は貯金し、旅費や宿泊費にあてて、休みの日に会いに行きました。
でも、それもバレました「今日は許すが、金輪際、娘とは会わないでくれ」と言われ、二人は最後の夜を一緒に過ごしました。
「これで子供ができたら私も覚悟を決めて家を出ます、でも、できなかったら別れましょう」と言う彼女。
結果は電話すると言うことで、泣く々別れました。

その後、私は冬梅さんのバンドを辞め、飲んだくれの毎日でした・・・

2001/12/09

苦悩の日々

 ピーターのバック・バンドは楽しいんですが、毎回同じようなショー構成で段々飽きて来ます。
そんな時、禿丸から「清水峰生さんがバンド作るので一緒にやらない」と話しがあり行く事に決めました。
上京して2年後位、もっと一杯勉強したい時期でした。

 清水さんは長兄の知人でハワイアン界の人、「ポップス69」という変なバンド名、一緒にやったメンバーも、人はいいんだけどプレーが合わない、何ヶ月かでそのバンドは解散。

 その後、禿丸がバンド結成。
白片茂(ヴィブラフォン)、小林龍夫(アルト・サックス、フルート)、佐々木伸三(ギター)、藤田潤一(ベース)と私の5人のメンバーで、楽器を演奏しながらコーラスする、和製フォー・フレッシュメンやレターメンを目指すバンドです。
仕事前や仕事後、休み時間も練習しました、音楽漬の毎日です。
でも、上手くいきません、一緒にやってるメンバーに難が・・・
この頃の私は焦っていました、とにかく上手いメンバーと一緒に演奏して、自分が上手くなりたいと・・・
禿丸は育てていく方ですが、私はそれが我慢できない・・・

 仕事帰りや休みの日は、一緒に花園町の木造アパートで飲んだり遊んだりしましたが私の不満が募るばかり。
飲んだ席で「下手くそ!」とか「勉強しろ!」とか喧嘩したこともあります。
アルトのコバちゃんが結核で入院したり、ベースの藤田が結婚するんで辞めることになり(それが結婚の条件でしたが、私も辞めて違う仕事を探した方が良いと・・・)新しいベースにロミー木下が来ました。
ロミーは譜面が読めませんが感性が素晴らしく、味のあるヴォーカルと共に魅力的な音楽性を持っています。
ロミーのお陰で何ヶ月かは我慢ができましたが、ついに我慢できなくなり演奏してるステージを降りてしまったんです、若かったんですね・・・

それからは、ウェスタン、ハワイアン、ジャズ・コンボ等のバンドを転々と・・・

上手くなりたいと苦悩してた日々でした。

2001/12/08

楽しい思い出2

 その後、禿丸は自分のバンドを作り、新橋のキャバレーで演奏していました。
私が上京して1年後、中学の同級生、伸三さんがギタリストになりたいと後を追って上京してきたので、禿丸のバンドに入れてもらい、3ケ月かな?伸三さんとの短い同棲生活も始まりました

 私は「酒井忠とムーン・ビームス」で演奏していて、まだ売り出し前の池畑慎之介さんことピーターに会ったのもこの頃です、エレクトーン奏者の”かずみちゃん”に連れられて来たんですが、ヒョロッとして可愛かったんですよ!
その頃は休む間も無く働いていました、週休2日なんてとんでもない!月に1〜2回の休みしかありません。
午後は渋谷の東横本店や銀座三越で新人歌手のバック・バンドをやり、夜はダンス・ホールやクラブ、キャバレーで演奏し、それが終わると深夜から朝までサパー・クラブでの仕事、寝る間も無い位働きました。

 キャバレーやクラブでは楽しい思い出が沢山あります。
演奏中に小さく折った紙が落っこちてくるんです。
そこは2階があるクラブで、ステージの上が吹き抜けになっていて、ホステスさんが私達を上から見てめぼしい男めがけて投げてくるんです。
それが狙った所に来ないんですが、紙を開くと電話番号と名前が書いてあり「一緒にご飯食べよう」とか「飲みに行こう」、それも名前が分からないからピアノの人へなんて!
でも、当時はバンドマンとホステスさんの恋愛は御法度でした。
若いし楽器の演奏ができるだけでモテたんですが、お店に知れるとそれだけでギャラは払わず、クビになり殴られたそうです。
それでも、誘惑には勝てず行っちゃうんですね・・・

 しばらくして、ピーターがデヴューしたのでバック・バンドをやることになりました。
バンド名も「酒井忠とブルー・キャッスル」と変わり、5〜6人のバック・ダンサー付で、毎日が移動の巡業生活です。
沖縄は行きませんでしたが、日本全国を関西方面とか九州方面等に分けてのローテーションでコンサート・ツアーをしました。
1,000〜2,000位の会場で演奏するんですがファンには驚かされました。
10代の女子中・高生が大半ですが、車で移動の際、囲まれて動けなくなったり、演奏会場を何ケ所もタクシーで追いかけてきたり、ステージに興奮して上がってきて抱きつかれたりと、ものすごいエネルギーを感じました。

 その頃、私の楽しみは色んな地方の食べ物とお酒です。
仕事が終わると興行主が接待してくれ、一応その地方で有名な料理屋とかで打ち上げがあります。
それが終わってからが我々の出番、有志で二次会に出かけるんです。
ギターの長尾ちゃんやボーヤ兼マネージャー兼運転手兼歌手の一男ちゃん、ダンサーの”おばちゃん”と呼ばれてたリーダー等、飲み助連中と庶民的で美味しい店を探し毎晩宴会です。

好きな楽器を演奏してファンに喜ばれ、美味しいものも頂ける!

本当に楽しい日々でした!

2001/12/07

楽しい思い出

 ここでは沢山の友人ができました、東京で友人になった一人が白片茂さんという方です。
ハワイアンの大御所バッキー白片さんの3男で、「上野の”ホテル市松”でヴィブラフォーンをやっていて上手いから聴きに行け」と私の長兄(元ギタリスト)が紹介してくれ会いに行きました。

 バンマスの藤原さんに挨拶すると「じゃあ、遊んでいってよ」とドラムを叩かせてもらえることになりました、その頃はバンドマンが行くと一緒にやらせて貰えたんです。
カウンターで聴いていて上手かったんですが、一緒にプレーするともっと上手さが分かります、凄いな!と思いながら1ステージ一緒にプレーさせてもらいました。
ステージが終わって話したら、2才年上ですが好きなプレイヤーやレコード等の話しが弾み、すぐ仲良くなってしまいました。
面白いもんで、一緒にプレーすると”なにか”がお互いに分かりあえ、赤い糸のようなもので結びつくんじゃないかな?
それから休みの日はちょくちょく遊びに行き、最初の頃は”しげるちゃん”と呼んでいましたが、ちょっと頭が薄かったのであだ名を「禿丸」とつけてしまい”はげまる”、彼も”くにちゃん”と言ってましたが”くにすけ”とお互いに呼ぶようになりました。
私の名前は邦彦ですが、なんでだろう・・・Hだったのかな?

 今まで?千人の方とプレーしたと思いますが友達になれる確率は少なく、一緒にプレーしても”仕事”を一緒にやってるだけの人が大半なんです。
禿丸は研究熱心でバイブが上手いし目が輝いていて、田舎から出て来たばかりの私には教わる事が沢山あり、教えて頂きました。
「このレコード面白いし勉強になるから聴いてごらん」、「安くて美味しい店があるから飲みに行こう」、「上手い人がいるから聴きに行こう」等々。
ヴィブラフォーンだけかと思ったらピアノは弾けるし、ギター、ベース、ウクレレ、スティール・ギターまで弾き、スティール・ギターで東芝からソロ・レコードまで出しています。

 でも、最近は立場が逆転して私が彼の師匠、パソコンの譜面ソフトで分からないことがあるとすぐ電話してきます、「”くにすけ”分からないんだけど、教えてくれる?」って。

 ところで、私がプロの世界に入らせて頂いたのは長兄の友人、酒井忠さんというピアニストの方のお陰です、酒井さんが「おしどり」のバンマスの成田さんを知ってて紹介してくれました。
その酒井さんがバンドを結成することになり誘われました。
成田さんには、プロになりたての私に色々教えて頂いた恩義があるし、酒井さんにも紹介してもらった恩義がある・・・と思っていたら酒井さんが成田さんに話し、私を勝手に自分のバンドに入れてしまいました。
その演奏場所が禿丸と同じ”ホテル市松”、禿丸は最上階のラウンジで私達は地下のクラブ。
バンド名は「酒井忠とムーン・ビームス」、その頃のメンバーは酒井忠さん(Piano)、野津洋治さん(Bass)、長尾義弘さん(Guitar)、小林龍夫さん(A.Sax,Flute)と私の5人で、「Polka Dots and Moon Beams」をテーマ曲にしたジャズ・コンボです。

そんな関係で禿丸と毎日会うから大変です、皆で仕事が終わってから飲むんですが、お金がないので飲む場所は花園町の我が木造アパート。

皆でワイワイやってるとコンコン!「高谷さんうるさいよ、深夜なんだからしずかにして!」とおじさんの声。

2001/12/06

ほろ苦い思い出

 結婚しようと思った女性が今まで4人いますが、花園町のアパートに住んでた頃、最初の破局がありました。
双方の親も認めてくれ、金の指輪ですが(私の親に買って貰った)あげた1つ年上の女性です。
私が上京して落ち着いたら結婚する予定でした。

 手紙の返事も書かないし出さない(筆無精)、電話もたまにしかしない(その頃、長距離電話は高かったし、大屋さんの呼び出し電話だった)ので彼女は不安だし、淋しかったんでしょうね。
私はその反対で、憧れのバンドマン生活を必死に勉強したり、エンジョイしていました。

 オーディションに受かり、ドラマーとして最初に仕事をしたのが横浜の黄金町近くにあった「おしどり」、美空ひばりさんの弟さん、加藤哲也さんが経営してたサパークラブです。
美空ひばりさんや加藤哲也さんは、私にとって、テレビや映画でしか見られなかった天上人です。
美空ひばりさんとはお会いしなかったんですが、加藤哲也さんも歌手や俳優として活躍してた方で、その方と一緒に仕事ができると思うと、田舎者の私は有頂天になっていました。
でも、最初にお会いして歌のバックでドラムを叩いたら、1コーラスで歌い終わり、何にも言わずに帰ってしまいました・・・

 その頃の私は、普通の譜面は読めたんですがドラムの譜面が読めなく、どこをどうやって叩いたらいいか分からないので、はっきり言ってメチャクチャで歌えなかったんですね。
ドラムの譜面は五線紙にバスドラム、スネアドラム、タムタム、シンバル、ハイハットを縦線に沿って書きます、ピアノ譜だったら和音のようなもんですが、ドラムの種類によって違う形で書かれているんです。
ひとつのパターンがあって、今考えると簡単なんですが、当時はドラムの譜面の知識がなかったんですね。
バンマスでピアノの成田さんが、優しくも厳しく教えてくれ、ステージの合間や家に帰ってからも遅くまで練習しました。
毎日が、歌ってもらいたい一心で必死にドラムと譜面の勉強です、そんな訳で彼女に連絡する暇もなかったんです。

 でも、若いって素晴らしいもので覚えも早く、3週間位で要領も掴め、ちょっとながら譜面が読めるようになり、歌ってもらえるようになって、「上手くなったな!」と加藤さんに言われた時は感動しました。
仕事が終わると、取り巻きの綺麗な女性と一緒にご飯を食べに連れて行ってくれたり、飲ませてくれたりの毎日です。
益々連絡しない日が続きました。
しばらくして、仕事もなんとかこなせるようになり、気持が落ち着いた頃電話しました、「久し振りだね、東京に遊びにおいでよ」と言うと口ごもっています、「どうしたの?」と聞くとしばらくして「好きな人ができたの・・・」と小さい声で言いました。

私が持っていた指輪はお酒に変わりました。

結婚したかった女性との最初の破局です・・・

2001/12/05

懐かしの新宿

 今日は午後から仕事で新宿へ行きました。
夜、飲みに行く事はたまにありますが、仕事で行ったのは久し振りです。

 新宿は、私がバンドマンになって初めて住んだ懐かしい場所で、住んでた所は新宿区花園町、大屋さんは安達さんといいますが、おじさん、おばさんと呼んでた方でした。
前にも書きましたが、四畳半一間でキッチンというか台所・トイレが共同、風呂無しの木造2階建のアパートで家賃は7,000円、当時の初任給が2万円位、私が初めてバンドで貰った給料が55,000円でした。
普通に生活すれば何の不自由もない生活ができますが、計算できない酒好きなので、毎日飲むとお金が足りなくなります。
足りなくなると大屋さんも分かるんですね、おじさんが「いい若い者がそんなの食ってちゃ駄根だよ、金が無いんだったら貸してあげるよ!」と言います。
そんな時は、台所で何にも具の入らないスパゲッティやインスタント・ラーメンを作っているからです。
「すみません、お願いします」というと「給料日はいつ?・・日に返してくれるのね」と言いながらお金を貸してくれました。
ところで、今時こんな大屋いるのかな?
その頃のバンドマンは15日と月末の2回払いですが、遅くなることもあります。
すると大変です「・・日に返してくれるといったけど、どうなの?」、「すみません、ちょっと遅れてるんでもう少し待って下さい」とお願いします。
すると「・・日ね、確かだろうね?」、「多分、大丈夫だと思います」と答えるしかない程、不確かな給料日だったんです。

 その四畳半一間が皆のたまり場です。
夜、仕事が終わってから飲み会をしますが、なにせ木造アパート。
コンコンとノックして「高谷さん夜中なんだから静かにしてよ!」と怒られるのはしょっちゅうです。
また、隣に新婚さんが住んでいたんですが始まると大変です、5〜6人の男が急に静かになり聞き耳を立て様子を伺います。
それを肴に酒を飲みながら話し出すと声も大きくなります、すると「静かにしてよ!」とまたおじさんの声です。
休みの日はもっと大変です、作って食べるのは焼肉で、お酒はサントリーの角瓶と決まってました。
若いから飲み過ぎますし喧嘩もします、お前は下手!とか平気で言っちゃうんですね。
「お前こそなんだ、あの演奏は!」とか「あんな曲も知らないのか?」、「酒なんか飲むより勉強しろ!」等々、その後は飲み過ぎてゲロ吐いたり、廊下で寝ちゃったりとか・・・
迷惑かけっぱなしのアパート生活でした。
 おばさんも面白い人で、夏お風呂に入った後縁側で涼んでますが、オッパイ丸出しでウチワで身体をパタパタしていて「見るか?」とわざと見せたりもします。
おじさんとおばさんは亡くなりましたが、娘さん夫婦や子供達とは今でもおつき合いがあります。
旦那さんとはゴルフ行ったり一緒に飲んだり、女の子は会社にアルバイトで来てたし、男の子は「焼肉食べたい」と言ってよく来ています。
 今はその木造アパートはマンションになり安達さんも引っ越しましたが、近くを通り懐かしかったので、バンドマン時代によく行ってた食堂に行って”鰺フライとメンチカツのミックス定食”750円也を食べて来ました。

たまには新宿もいいな!

2001/12/04

母の顔

 一昨日、娘夫婦が家に帰りました。
その日帰るのが子供にとって良い日なんだそうです、「もっと居ればいいじゃない」と言っても駄目でした。
帰っちゃう・・・
顔をず〜っと見ていましたが、「毎日会えなくなるけど会いに来て」なんて言うはずもないし、いつも通り寝てばかりでウンチとお腹がすいた時だけ泣きます。
私は心の中で泣きながら娘?にお別れを言いました、「すぐ会いに行くからね、淋しいだろうけど我慢してね」。

 昨日、娘?に約束通り会いに行きました。
経堂に住んでますが道が混んでるようで甲州街道から来た方が良いということです。
ご飯を食べ、車で向かったんですがこちらも新宿近辺が混んでて、予定より1時間も遅く着いてしまいました。
「淋しかったよ」、「私も」とは言いませんが、行ってすぐ顔をみたら笑っています。
私を見て笑った!と思ったんですが目は閉じたまま、夢でもみてるのかな?
2週間も経っていないのに表情や顔が変わってきてます、本当に可愛い顔してる!
そっと抱き上げましたがすやすや寝ています、30分位したら身体をもぞもぞさせ泣き始めました、ウンチかな?お腹すいたのかな?
娘に聞いたら「どっちもそんな時間なの」との答え、てきぱきとおむつを替えたりお乳をあげたり良いお母さんです。
う〜ん、子供と思っていたのに、子供を産んだらやっぱり変わるんですね、それも出産後と午後で娘の顔が変わった時よりもっと母の顔をしていました。

母になった娘は凄いと思った日でした。

2001/12/03

 


これも縁

 4時半頃、経堂に美味しい蕎麦屋さんがあると聞き、娘の旦那と一緒にお店に入った途端電話がなりました。
「清水です、今夜暇?」、「いつも暇ですよ」、「じゃあ、今夜”浅草のJANOME”でアミーゴの追悼ライブあるからおいでよ」とライブへのお誘いでした。
そうです、鈴の音さんの旦那様のチョロさんこと清水万紀夫さんからです。
アミーゴさんとは面識がないんですが、原信夫と#&bでジャズ・ギタリストとして十数年在籍した後、フリーになりスタジオやライブで活躍していた方で、47才で若くして亡くなった川上和彦さんというギタリストです。
亡くなって3年経ち、今日は”I REMEMBER AMIGO”という追悼ライブです。

 8時頃、お店に着いたら演奏は始まっていてミュージシャンやお客様で一杯です。
原田イサムさん(Dr)、谷口雅彦さん(Ba)、ジョー蒲池さん(Pf)、粉川忠範さん(Tb)、鈴木孝二さん(Cla)、青島信幸さん(Ba)、佐脇武則さん(A.Sax)、酒井潮さん(Org)等も見えてます。
「ここで一緒に飲もう」とイサムさんに言われ一緒の席に座り、飲みながら聴きましたが皆さん上手い!
交代で演奏するんですが、ノン・ストップでアミ−ゴさんがよく演奏してたという曲等を演奏します。
清水さんのクラリネットに鈴木さんが加わり、斎藤清さんのテナー・サックスが絡まりあい絶妙のハーモニーが奏でられます。
色んな方が歌ったり演奏して場が盛り上がってます、お店のスタッフもトロンボーンやヴァイオリンで参加しますが、なかなか上手い!
アミ−ゴさんの奥様の歌も聴きました! ピアノの蒲池さんの奥様の歌も!

 ドラムの方も6人位来ていました、スタイルも叩き方も違いますが皆さん素晴らしい!
初めてお会いしましたが、チク小林さん、鈴木雅司さん、八城邦義さん、?さん等のドラマーの方々です。
私も2曲叩かせて頂きました、その中でも鈴木雅司さんというドラマーのファンになってしまいました。
ライブが終わる頃には、イサムさんを囲んでドラマー全員が同じ席で飲んで話していました、鈴木さんとは同学年で若い頃にはヴェンチャーズに夢中になっていたんですとのことです。
「今度遊びに来て下さい」と名刺交換もしました。
普段、ドラマー同士(私は元ドラマー)は会わないもんですがアミーゴさんや清水さんのお陰で会えました。
これも縁ですね。

今日は清水さんに誘って頂き、本当に楽しい夜を過ごしました。

2001/12/02


今時の若者

 「3時半に有楽町のビック・カメラの正面で待ってるから」と古屋さんから電話がありました。
今日は息子の剛君にパソコンを買ってあげる日です。

 古屋さんは元シャープ5というグループ・サウンズのキーボード奏者でした、シャープ5?と知らない方が多いと思いますがGSブーム(これも知らないか?)の立て役者です。
28年位前に一緒にバンドをやらせて頂いたり、去年、デヴィ夫人のディナー・ショーのバック・バンドを一緒にやらせて頂いたりと、お世話になってる方です。

 先日も書きましたが、剛君はカメラマン志望の若者で、写真のコンテストで色々な賞を頂いたそうですが仕事がないんです。
アルバイトしながら頑張っているんですが、仕事で使ってるパソコンが余りにも古く作業がはかどらないのを知り、古屋さんが「本体は買ってあげるけどその他は自分の力で買え」と本人のプライドも考え買ってあげるんです。
本当に今必要なものはSCSIカードと増設メモリーだけで、これは3万円もしません。
親心ですね! 優しい・・・
買う機種は決まってます、MacG4/876です。
店員さんに聞いたら、今買うとメモリを1Gプレゼントだって!
やった〜!、ということはSCSIアダプターだけで1万円もしない、剛君ラッキー!
「じゃあ、いくら?」と言って古屋さんが全額払いました。
剛君は、親父に全額払って貰うのは悪いと、払うつもりで貯金を降ろして来てたんです。
「少し払うよ」と言うと「足りない物でも買えよ」と古屋さん、格好いい!

 帰りに中華屋に寄り夕食を3人で食べました。
終わって勘定払おうとしたら「ここは僕に払わせて下さい」と剛君。
「いいよ」と言っても譲りません、こんな若者もいるんですね。
私達は素直に剛君に奢ってもらいました。

夢に向かって頑張れ! 

多分、嬉しくて徹夜でしょうね。

2001/12/01